古代の人たちが思い描いた「この世界のしくみ」って、実は場所や信じるものによってぜんぜん違っていたんです。その代表例が、ギリシャ神話とゾロアスター教。
ギリシャ神話では、たくさんの神々が冒険したりケンカしたりしながら、だんだんと世界ができあがっていきます。神さまたちは人間っぽくて、失敗もすれば恋もする。まるで人間社会をちょっと拡大したような世界観なんですね。
一方でゾロアスター教は、ぐっと雰囲気が変わります。そこではアフラ・マズダ(善の神)とアンラ・マンユ(悪の霊)が世界をめぐって対立し、光と闇、善と悪がハッキリ分けられているんです。
この世界は偶然できたんじゃない。そこには「道徳的な秩序」がちゃんとある──そんな考え方が、ゾロアスター教の中心にありました。
つまり、ギリシャ神話は「多神的なにぎやか世界」、ゾロアスター教は「善と悪がせめぎ合う道徳的な宇宙」。
このふたつを並べて見てみると、人々が「宇宙のしくみ」をどう理解しようとしたのかが、はっきり浮かび上がってくるんです。
|
|
|
|
|
|

ファラヴァハルの浮彫(ペルセポリス)
ゾロアスター教の象徴的意匠として知られるファラヴァハル。「善なるアフラ・マズダー」と「悪なるアンラ・マンユ」の二元構造を背景に、人の選択と秩序(アシャ)を促す象徴表現。神々の系譜や英雄譚で世界観を語りやすいギリシャ神話との違いを際立たせる。
出典:Photo by Majid Taghipour / Wikimedia Commons CC BY-SA 4.0より
まずはっきりと見えてくる違いは、神々の構造そのもの。どちらも「神」を扱ってはいるけれど、その仕組みや世界のとらえ方はまったくの別物だったんです。
ギリシャ神話では、ゼウスやポセイドンをはじめとしたオリュンポスの神々が、それぞれの領域を分担して支配していました。空はゼウス、海はポセイドン、知恵と戦略はアテナ、愛と美はアフロディテ──という具合に、神々がバラバラに役割を持って、時に協力し、時にぶつかり合いながら物語を動かしていきます。
そして何より、彼らは人間くさい。怒ったり、恋したり、裏切ったり。神どうしの愛憎や人間への干渉が、そのままドラマの起爆剤になっていたんですね。
神々同士のごちゃごちゃした関係性こそが、ギリシャ神話の醍醐味だったわけです。
それに対してゾロアスター教は、かなり異なるアプローチを取っていました。世界は善の原理「アフラ・マズダ」と、悪の原理「アンラ・マンユ」のふたつの力によって構成されていて、宇宙は常に善悪の戦いの中にあるというのが基本的な考え方です。
ここでの神話は、単なるエンタメじゃありません。「善を選び、悪を退けよ」という倫理メッセージがバシッと中心にあって、人間自身もまた、この宇宙的バトルの一員として巻き込まれているんです。
ギリシャ神話は、文学作品として楽しめる面が強くて、「あの神があんなことした!」「この英雄が大ピンチに!」と、人間ドラマを読むようにワクワクできる構造でした。
でもゾロアスター教は違います。こちらは信仰と実践がセット。善なる神に仕え、悪の勢力を遠ざける──そうした生き方の指針として、神話が機能していたんです。
つまり、ギリシャ神話が文化や芸術の源泉だったとすれば、ゾロアスター教は人間の行動を導く教えとしての色合いが強かった、ということ。
神々が織りなすドラマの世界と、善と悪がせめぎ合う宇宙の構図。
その違いから見えてくるのは、神話と宗教が果たす役割のちがいだったんですね。
つまりギリシャ神話は多神的な物語であり、ゾロアスター教は善悪二元論を軸とした宗教だったのです。
|
|
|
次に見ておきたいのは、この世界がどう始まったのかという話。宇宙の誕生やその行く末をどう描くか──そこには、それぞれの文化が大事にしていた価値観がしっかり反映されているんです。
ギリシャ神話のスタート地点はカオス(混沌)。何も整っていない、真っ暗でドロドロしたような状態から、ガイア(大地)やウラノス(天空)、そしてたくさんの神々が次々に生まれてきます。
そこから神々の世代交代が始まり、最終的にゼウスが世界の支配者として秩序を打ち立てる──という流れ。
この構図は、「混沌→秩序」へと進むダイナミックなドラマになっていて、物語全体のテーマにもなっているんですね。
ただし、ゼウスが支配してからも神々の争いは止まらず、完全な平和は訪れない。そこに、人間社会の不安定さや限界も重ねて見えてくるんです。
一方、ゾロアスター教の宇宙観は最初から善と悪の対立を軸にしています。
アフラ・マズダ(善)とアンラ・マンユ(悪)の戦いが、世界の誕生と同時に始まっていて、この戦いは有限の時間の中で完結するものとされていました。
重要なのは、この戦いに終わりがあるということ。そして最後には善が必ず勝つ、という救いの約束が明確に語られているんです。
この終末観が、ゾロアスター教の大きな特徴。未来に向かって、はっきりと光の方向へ進んでいく宇宙を描いていたわけです。
ギリシャ神話では、たとえ秩序が生まれても、それはつねに揺らぎをはらんだものでした。神々は争いを続け、人間の世界にも混乱が絶えない。完成された平和ではなく、不完全で、どこかリアルな世界が描かれていたんですね。
でもゾロアスター教では違います。宇宙の行方はあらかじめ定まっている。そしてその結末は、善が勝ち、悪が消え去るという救済の物語。しかもその未来には、人間もちゃんと関わっているんです。
つまり、人の行いが宇宙の運命に関係しているという発想。
この「秩序はいつまでも未完成か」「それとも必ず救いに至るか」という違いが、両者の宇宙観を大きく分けていたんですね。
つまり宇宙の始まりと終わりの描き方に、二つの世界観の差が鮮明に現れているのです。
|
|
|

アフラ・マズダーから王権を授かるアルダシール1世(180 - 242)(1860年作の素描)
神が人間の王に統治の正統性を与える場面。善と悪の二元論のもとで、正しさ(アシャ)にかなう選択を促す関係性が可視化されている。
出典:Lutf 'Ali Khan (author) / The Metropolitan Museum of Art / Creative Commons CC0 1.0より
最後に注目したいのが、この世界の中で人間がどんな役割を与えられていたのかという点です。神に翻弄されるだけの存在だったのか、それとも宇宙そのものの運命に関わるような存在だったのか──ここに、ギリシャ神話とゾロアスター教の深い違いが見えてくるんです。
ギリシャ神話の中では、人間はしょっちゅう神さまたちの気まぐれに振り回されます。愛されたり、怒られたり、時には動物に変えられちゃったり……。
でもその一方で、人間が英雄として神々と渡り合う姿も、しっかり描かれてるんです。たとえばヘラクレスの十二の試練や、ペルセウスのメドゥーサ退治なんかがその代表。
人間の知恵・勇気・努力が、物語を動かす原動力になっていたんですね。
一方、ゾロアスター教では人間の立ち位置がまたちょっと違います。こちらでは、アフラ・マズダとアンラ・マンユの善悪の戦いに、人間も参戦しているという構図。
人間は自由意志を持っていて、毎日、自分で「善か悪か」を選んで生きている。その選択の積み重ねが、最終的に宇宙全体の運命を左右するとされていたんです。
つまり、ただ生きてるだけじゃなくて、人間の行動に宇宙レベルの意味がある──そういう考え方なんですね。
ギリシャ神話では、死後に待っているのは基本的にハデスの冥界。そこは薄暗く、静かな世界。でも、ごく一部の英雄だけはエリュシオンという楽園に迎えられるという設定です。
つまり、救済は限られた者だけが手にする特別なものだったんです。
でもゾロアスター教では、最後の審判においてすべての人間が裁かれます。善を選んだ人には救いが、悪に染まった者には滅びが訪れる──この普遍的な救済の思想こそが、大きな特徴なんですね。
人間の生き方そのものが、宇宙の未来に直結している──そんな壮大でドラマチックな世界観が、ゾロアスター教には息づいていたんです。
つまり人間の立場も、神話的な冒険の主体か、善悪の戦いの担い手かという違いがあったのです。
|
|
|