戦場に立った兵士たちにとって、目に見えない恐怖や奮い立つ勇気──そんな感情を形にしたのがアレスでした。剣がぶつかり合う音、地を染める血のにおい。それは単なる現実じゃなくて、神の気配が宿る瞬間だと、古代ギリシャの人々は感じていたんです。
戦争の神アレスは、強さとともに恐怖と混乱をもたらす存在。だからこそ彼は、尊敬されながらも恐れられ、ときに憎しみすら向けられるという、複雑なまなざしを向けられていたんですね。
つまり、アレスは「戦いそのものの激しさ」と「人間の奥底にある闘争心」を体現する神。血が騒ぐような戦の熱狂と、それにともなう破壊の力──その両方を象徴する存在だったのです。
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軍神アレスの木版画(1878年)
─ 出典:Wikimedia Commons Public Domainより ─
アレスは、ゼウスとヘラの子として生まれたオリュンポス十二神のひとり。でも彼の存在は、他の神々とはちょっと空気が違います。というのも、彼が象徴していたのは理性ある戦いではなく、血と怒りにまみれた戦場のカオスだったからなんです。
戦争の神として知られているアレスですが、その本質は「勇者を導く神」なんて甘いものじゃありません。むしろ血を好み、怒りに突き動かされるような、戦いの狂気そのものを映す存在だったんですね。
詩人ホメロスが『イリアス』の中で描いたアレスの姿は、まさに災厄の化身。彼が戦場に現れると、そこにはただ剣と槍が飛び交う混乱が巻き起こり、勝利の影には無数の命が犠牲になることが暗に語られます。
つまりアレスは、栄光をもたらす英雄ではなく、戦の残酷さや恐怖そのものを体現する神。兵士たちの恐れや怒り、そして殺し合いの激情──そうした人間の内面と地続きの存在だったんです。
よく混同されがちですが、ローマのマルスとはまったく違うキャラクターなんです。マルスは国家を守る正義の戦神として、秩序や誇りと結びつけられた存在。
でもアレスは違います。彼は統率や理念とは無縁。戦いの中でむき出しになる衝動や破壊欲、そうした混乱と暴力の神として描かれました。
この違いは、神話がその社会の価値観をどう映し出すかをよく物語っていると言えるでしょう。
絵画や彫刻に出てくるアレスは、鎧に身を包み、槍や剣を手にした屈強な戦士として描かれています。見た目は堂々としてカッコいい。でもその背後にあるのは、戦の力強さと同時に、流血と恐怖なんです。
人々はアレスに、勇ましさだけでなく戦場にひそむ冷酷さを見ていた──だからこそ彼は、崇拝されるというよりも、怖れられ、距離を置かれるような特別な神だったのかもしれません。
つまりアレスは、戦の光と影を一身に背負った神として人々に理解されていたのです。
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『アレスとアテナの戦い』
戦の喧噪と憤怒に駆られた軍神アレスが、理性と秩序を体現するアテナに制される場面。力の衝動と抑制のせめぎ合いが、軍神像の本質を際立たせる。
出典:ジャック=ルイ・ダヴィッド(1748 - 1825)/ Photo by Louvre / Wikimedia Commons Public domainより
アレスの神話は、ただ戦場を駆けるだけじゃありません。他の神々との関係や、人間との関わりの中にも、彼の意外な一面が顔を出してきます。恐ろしいだけじゃない、どこか人間くささも感じられる存在──それがアレスなんです。
アレスの物語の中でも特に有名なのが、アフロディテとの恋愛エピソード。美と愛の女神と、戦と暴力の神。まったく正反対の二柱が恋に落ちるなんて、そりゃあ古代の人たちにもインパクト大だったわけです。
でもこの恋、鍛冶の神ヘパイストスにバレちゃうんですよね。巧妙な罠にかけられて、神々の前で密会の現場を暴かれてしまう。アレスは戦の神なのに、赤っ恥をかかされるという展開に。
この出来事は、あの恐れられるアレスにも弱さや照れくささみたいなものがあるってことを、神話を通して伝えてくれているんです。
『イリアス』の中では、アレスがアテナに打ち負かされるシーンも登場します。自ら戦いを司る神でありながら、戦女神にあっさりやられてしまうという、なんとも皮肉な描写。
ここで描かれているのは、無秩序な暴力の限界。力まかせに突き進むだけでは、理性と戦略を持つ者には敵わない──そんなメッセージが込められているのかもしれません。
アレスにはたくさんの子どもたちがいたとされています。その中でも有名なのがデイモス(恐怖)とポボス(パニック)。彼らは戦場で兵士たちの心に忍び寄る感情そのものとして神格化されていました。
つまりアレスは、単なる「剣をふるう神」ではなく、戦争そのものが生み出す混乱や感情の源。怒りや興奮だけじゃなく、恐怖や絶望までも彼の領域だったんですね。
こうして見ると、アレスは矛盾だらけの神。愛されることもあれば笑われることもあり、勝利の象徴でありながら、敗北や混乱の象徴でもある。
まさに人間の心にひそむ戦いの本質を映す存在だったんです。
つまりアレスの神話は、戦争の恐怖と人間の心の弱さを重ね合わせて描いたものだったのです。
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アレスが巨人と戦う赤絵式ペリケの細部(アテネ国立考古学博物館)
スパルタではアレス(エニュアリオス)を戦の守護として祀り、規律と勇気を重んじる祭祀観が育まれた。こうした信仰背景を踏まえると、古代ギリシャの戦神像が持つ攻撃性と秩序の両義性が立ち上がってくる。
出典: Photo by George E. Koronaios / Creative Commons CC BY-SA 4.0(画像利用ライセンス)
アレスは、ゼウスの息子でありながら、ギリシャ全土で広く愛された神というわけではありません。でもそれでも、各地に彼の祠や祭祀がちゃんと存在していたんです。
それは、人々の心にあった恐れと祈り──アレスに逆らえないからこそ、なんとかして「味方についてほしい」と願わずにはいられなかった。その複雑な感情が信仰という形になっていたんですね。
軍事国家スパルタでは、アレス信仰はまさに実践型。戦士たちは出陣前に祈りを捧げ、アレスの狂気にも似た戦意を自分の中に呼び起こそうとしたんです。
彼らにとってアレスは、たしかに恐ろしい。でも同時に、その狂気を武器に変えてくれる守護神でもありました。つまり、「恐怖を味方につける」ための存在だったんですね。
興味深いのが、アテナとの対照的な立ち位置。アテナは知恵と戦略による「理性的な戦い」を司る女神。冷静に計画を立て、正義のもとに戦う存在として尊敬されていました。
それに対してアレスは、激情と暴力による「本能的な戦い」の象徴。つまりこの二柱の神は、ギリシャ人にとって戦の二面性──理性 vs 衝動をそのまま表した存在だったんです。
アレスに祈るということは、戦争の現実を受け入れるということでもありました。誰もが破壊を望んでいたわけじゃない。でも、それを避けて通れない場面もあった。
だから人々は、アレスを好きにはなれないけど、無視はできない──そんな存在として見ていたのです。
アレスは、戦争という避けがたい現実に向き合いながら生きていた古代人の割り切れない思いを映し出す鏡のような神だったのかもしれません。
つまりアレス信仰は、戦争の現実と向き合うために生まれた古代人の知恵だったのです。
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