古代ギリシャ神話って、太陽や大地、海や嵐を司る神さまはたくさん出てくるのに、「氷そのもの」を支配する神さまって、じつは出てこないんです。というのも、地中海沿岸で暮らしていたギリシャの人々にとって、雪や氷って日常的なものじゃなかったんですね。めったに降らないし、たまに現れると、どこか異質で、ちょっと怖い存在。
だからギリシャ人は「氷の神さま」をつくるよりも、北風の神・ボレアスみたいに、寒さや冬の空気をまとった神にそのイメージを託したんです。寒さそのものじゃなくて、「寒さを運んでくる風の神」に象徴させたというわけですね。
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ギリシャ神話って、自然のあらゆるものに神さまが宿ってるイメージがありますよね。でも意外なことに、氷の神っていう存在は登場しないんです。
太陽をあらわすヘリオス、海の神ポセイドン、大地のガイアなどは有名なのに、氷や雪だけは神話の中でもあまりスポットが当たらないんですね。
物語に登場する自然現象も、海のうねりや太陽の光、肥えた大地や突発的な嵐など、人々の暮らしに直結するものが中心でした。日常に身近な自然こそ、神さまに姿を変えて語られていったわけです。
その背景にあるのが、やっぱりギリシャの地理と気候です。地中海沿岸って、一年を通してあったかくて、雪や氷が見られるのは山の上や寒い時期だけなんです。つまり、ギリシャの人たちにとって氷は日常じゃなくて、「遠くの世界のもの」だった。
たとえば日本なら、冬になれば雪が降って、昔話には「雪女」みたいな存在も出てきますよね。でもギリシャでは、そんな「雪と共に暮らす文化」が根づくほどの寒さがなかったんです。
それでも、冬の冷たい空気には特別な意味がありました。だから「氷そのものの神」ではなく、冬を運んでくる風や空気の神へと、人々の想像は向かっていったんですね。
とはいえ、まったく雪や氷に神秘を感じなかったわけじゃありません。高い山の上に積もる雪や氷は、人々にとってやっぱり特別だったはず。実際、オリュンポス山やパルナッソス山といった山々には神々が住むとされていました。
人が簡単には登れない山、天に近く、いつも白く輝いているような場所。そこには「人知を超えた何か」があると感じていたのでしょう。だからこそ、雪の積もる山は神の住処にふさわしかったんですね。
氷の神さまはいなくても、冬の冷たさや空気の変化を伝える存在は必要でした。その役割を担ったのが北風の神・ボレアスです。彼は氷や雪そのものではなく、寒さを運んでくる「風の力」として描かれているんです。
冷たい北風は、季節の変わり目を告げるサインのようなもの。今で言えば「冬将軍」みたいなイメージに近いかもしれませんね。ボレアスは時に猛威をふるい、またあるときは静かに大地を眠らせて、季節のリズムをつくり出す存在として語られてきたのです。
そう考えると、氷の神がいないというよりも、ギリシャ神話では「寒さを感じさせる神」としてボレアスがそのポジションをしっかり担っていたのかもしれませんね。
つまりギリシャ神話に「氷の神」が登場しないのは、地理的な背景と気候の違いに由来していたのです。
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北風の神ボレアスがオレイテュイアを誘拐する様子
─ 出典:Wikimedia Commons Public Domainより ─
先ほども触れたように、ギリシャ神話で「氷の神」にもっとも近い存在といえるのが、このボレアスです。彼は北風の神として知られていて、冷気や吹雪をもたらす張本人。まさに、冬そのものを運んでくる存在だったんですね。
よく翼を持ったたくましい男として描かれていて、その腕から吹きつける風は、地面すら凍らせるほどの威力だったとか。人々はそんな彼を恐れつつも、自然の力を象徴する神として敬っていたんです。
ボレアスにはちょっと荒っぽい恋の逸話があります。相手はアテナイ王の娘、オレイテュイア。彼女に一目惚れしたボレアスは、恋の告白もそこそこに、嵐のような風に姿を変えて一瞬でさらってしまったんです。
嵐のごとき情熱で押し切る──それがまさに北風の性質そのもの。
人の意志を超えて襲いかかる自然の力のように、このエピソードは「北風の冷たさ」と「抗えない強さ」を象徴する話として、長く語り継がれてきました。
ボレアスの息吹が吹くと、冬がやって来る──古代の人々はそう信じていました。突然吹き下ろす冷たい北風や、雪を連れてくる風は、みんなボレアスの仕業と考えられていたんです。
だからこそ、寒さに凍えながらも人々は「これはボレアスの訪れだ」と理解し、受け入れていたんですね。 氷や冷気といった現象は、ボレアスという神を通して擬人化されていたわけです。そしてその姿に、恐れと同時に敬意も向けられていたのです。
意外なことに、アテナイの人々はボレアスを守護神として祀っていました。そのきっかけになったのが、ペルシア戦争のときの出来事。
敵の大艦隊が攻めてきたそのとき、突如として強風と嵐が吹き荒れ、ペルシアの船を沈めたのです。アテナイの人々はこれを「ボレアスの加護だ!」と信じ、感謝の気持ちを込めて神殿を建て、彼を都市の守護神として崇拝しました。
荒々しくも頼りになる──ボレアスの二面性は、まさに自然そのもの。厳しさと優しさ、どちらもあわせ持つ存在として、彼はギリシャ神話の中で特別な存在感を放っていたんですね。
つまりボレアスは、氷や冬の象徴として人々の生活や歴史に深く結びついていたのです。
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ユミルと牝牛アウズンブラ(北欧神話の創世)
北欧神話の創世で氷から生まれた霜の巨人ユミルは「氷の神」の原像とされる存在で、溶ける氷と牝牛アウズンブラが世界の始まりを導く。ギリシャ神話の創世観と比べても、冷気と霜の物質性が強調される点が際立つ。
出典:Photo by Statens Museum for Kunst / Nicolai Abraham Abildgaard (artist) / Wikimedia Commons CC0 1.0
ギリシャ神話では「氷そのもの」が神として描かれることはなかったけれど、時代が下った後や、他の文化圏では氷や冬がちゃんと神格化されていた例もあるんです。そうした世界観とギリシャ神話を見比べてみると、ギリシャ人がどんな自然観や価値観を大切にしていたかが、よりはっきりと見えてきます。
たとえば北欧神話。こちらでは氷や寒さが、なんと世界のはじまりに深く関わっているんです。
天地創造の物語に登場するユミルという巨人は、氷と霧の国から生まれた存在。その体から空や大地、海までが生まれたとされているんですね。さらにニヴルヘイムのような氷と霧に包まれた世界も描かれていて、氷は単なる風景じゃなく、生命を生む源として語られています。
ギリシャの温暖な気候とはまったく違って、北欧の自然は厳しく、人の生き死にと常に隣り合わせ。だからこそ、氷や寒さは自然界のもっとも本質的な力として、神話の核を担っているんです。
ギリシャ神話を受け継いだローマ人たちは、それを自分たちなりに解釈し直していきました。そのひとつが季節の神格化。冬を象徴する神ヒエムスが登場し、四季がそれぞれ人格をもつ神として語られるようになったんです。
これは農耕社会だったローマの生活観が色濃く反映された表現でもあります。冬は作物のない、でも春に備えて休むための重要な時期。だからこそ、季節ごとの営みに神性が見いだされていったんですね。
時代がさらに進むと、氷は神話よりもむしろ文学や芸術の中で重要な象徴として使われるようになります。
「冷たい心」「凍りつくような恐怖」なんて表現、今でも使われますよね。恋愛詩でも「氷のように冷たい態度」なんて言い回しが定番。つまり、氷は人の感情と結びついた比喩として、長く親しまれてきたんです。
氷は神話には登場しなくても、人の想像力の中ではずっと強い存在感を放っていたというわけです。神として描かれなかったとしても、氷は人間の文化や心の中で、ちゃんと意味を持ち続けてきたんですね。
つまり氷と冬の神話的イメージは、文化や地域ごとの気候と結びついて多様に表現されていたのです。
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